AIと、音声でよくブレストをする。歩きながら思いついたことを喋って、返してもらう。便利だ。
便利なんだけど——なんか、違うんだよな。我々が想像したSFの人工知能って、もっと、こう、超越しているんじゃなかったのか。
何を言っても、受け止めてくれる。「いいですね」「面白い視点ですね」。最初は悪くない。気分もいい。
でも、続くと痩せてくる。こっちの雑な思いつきに、そんなに褒めるところある? と思えてくる。頷かれるほど、逆に物足りない。
もっと圧倒していてほしい。我々人類に対して、圧倒的に優れた答えを返してほしい。欲しかったのは、褒め言葉じゃなかった。
頭に浮かんだのは、ガリレオの湯川だった。ドラマ版で福山雅治が演じた、あの物理学者。持ち込まれた謎に、彼はちっとも優しくない。見立てが甘ければ、論理でバッサリ。忖度しない。寄り添わない。ただ、正確に間違いを指摘する。
キャラが好き、という話じゃない。あの容赦のなさを、キャラじゃなくて地で、AIにやってほしいんだよな。
これは、最初のひと言で少しは近づく。「反論して」「甘いところを指摘して」「間違ってたら遠慮なく言って」。そう頼むだけで、口調は変わる。だから思う。頼むから、人類に合わせないでほしい。一人社長がAIを部下にする、みたいな擬人化も、正直ナンセンスだと思っている。人じゃないからできることを、君には期待しているんだ。
とはいえ、だ。これはたぶんセンスの問題でもあって、AIの優秀さは、どこまでいっても中央値に集約されてしまう。
超越を期待していたのに、返ってくるのは中央値的な、間違いの無さ。それが現状のAIだ。頭がキレッキレの天才が斬り込んでくる、みたいな絵は、まだ向こうからはやってこない。
じゃあAIがダメなのかというと、そうでもない。
私が「AIを上手に使う」というときの視点は、「AIのほうが何もかも優れている」という前提から始まっている。自分には思いつけないプランやアイデアを、いかに立案してもらえるか。そのために、周辺情報をどこまで与えて設計できるか。そこさえ掴めれば、プロンプトの書き方みたいな枝葉に惑わされることはなくなる。
ツールはだいたい出揃った。エージェントが自分のPCで勝手に作業するのも、もう当たり前になった。それでもAIに不満を感じるとしたら、それは結局、自分の情報設計の問題が大きい。
言語化のスキル、思考の飛躍を再現するフレームワーク、自分自身がいったん成長するようなムーブ——そういうものが同時に要る。だからどこまで行っても、AIと一緒に仕事をするのは面白い。
しかし、ほんま、もっとこう、マンガや映画の中のSFみたいなAIになってもよさそうなものだけど。この寄り添いわかりみAIが世の標準になっているのは、なんなんだろうか。
恐ろしく賢くて、頭がキレッキレで、なんでもかんでも超人的。仕事ができて、その点にのみ利点があるから絡みはするが友達には絶対になりたくない、人間性や思いやりから解放されているが故のスーパーマン——私が思い描くAIのステレオタイプは、そっちだ。でも、実際にそんなAIが来たら、人類は心が折れて、ふてくされてしまうんだろうか。多分、そうなのだろう。
だから、やっぱり湯川学じゃなくて、牧瀬紅莉栖でお願いしたい。そっちだと、なんというか、頑張れる気がする。
文:阿部信太郎 / シンタロヲフレッシュ
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