言い訳に近い自由
下書きが100記事を超えだした。
その瞬間に言いたいことを記事として書き始めて、うまく言葉にならないときには「下書きとして保存」、後に回す。
そんなこんなでとりとめもない言葉がそこそこな文字数、下書きとして貯まっている。溜まっている。給っている。
が、自他共に認める飽き性オブ飽き性の僕なので、あの瞬間言いたかったことは後から見返したとき、(執筆時から見れば未来の僕には)とくに興味もないようなことだったりで。
ってか、そればっかりで。
自分自身ですら興味の持続できないことをわざわざサーバー領域を使ってまで言うほどの事でもないか、いやそれTwitterでとんでもないレベルでサーバー領域食いつぶしてるか、なら別にブログでやっちゃうか。
言うなれば僕が自分でお金を出して借りているサーバー領域を数百バイトどうしようが僕の勝手か。てか、下書きの段階でもう領域使ってたわ。
言葉にならないならば、言葉にならないままで。
たまたまその瞬間気になったフレーズや、思いついたアイデアを走り書きしたメモのように、いつかどこかで別の新しい気持ちや行動に結びつくこともあるだろう。
もしくは全くの無駄になることもあるだろう。
けども、無駄も遊びもないキッチリキチキチなそんなブログをを作りたかったわけじゃあなくて。
むしろ、愚にもつかないことだけど、それはそれとしてまとまりを持った文章を残す場所として、どこかから拝借した情報や言葉ではない、歴然とした自分のログを残す場所として、そういうものの蓄積場所があったって、悪いわけもなく。
実はちゃんと説明できないことこそ、言葉にできないけど、言葉で残したい思いや状況こそ、いわゆるスッと通れないほどの無視できない出っ張りの蓄積こそがセンスや性格になるのかもなぁ。
僕だけが言葉に出来ない思いは僕だけのもの。
分かりやすい不満なんてものは分かりやすい解決手段が用意されていて。
言葉にならないならば言葉にならないままで、そのままを受け入れてみようじゃないか。
という言い訳に近い自由。
文:シンタロヲフレッシュ