音楽が始まるまでの数秒間
2023年から、年齢で言えば43歳の年から、見たいと思ったアーティストは観たいと思ったタイミングでできるだけ見ておこうと思うようになった。
具体的なきっかけは2024年の5月段階(つまり現段階)では覚えていないが、2023年で言えば Weezer のライブを観た。
Weezerのことが好きな人は世界中にいるにはいるんだろうが、それが具体的な塊となって2,000人集まっているのを肉眼で目視し、The Sweater Song をリバースと一緒に会場一体となって歌ったときに、ああ、このバンドを好きな人たちが自分を含め少なくともここに2,000人もいるのかと、もともと自明だった事実を具体的でフィジカルな体験として実感した。
Weezer を肉眼で見た側と観てない側に分けるとしたら、わたしは「見た側」になり、外タレの県外ライブに1人で参戦するという実績を解除した。繰り返すが43歳のわたしだ。これを書いている現段階でわたしはまだ43歳だ。
先日は小沢健二のライブに行って来た。
ライブはとても楽しかった。それはもう言葉に出来ないくらい楽しかった。大小いろんなライブに行ったり出たり観たりしたが、なんならオールタイムベスト3にははいるんじゃないだろうか。LIFEが出て30年ということで、LIFEの楽曲がかかれば問答無用で魂が中学生に戻る。この体験をさせてくれるアーティストはこの世界でおそらく小沢健二だけだと思う。尊い。
ライブはとても楽しかったのだが、同時に無用の申し訳なさのようなものを感じた。
会場にいる3,000人くらい(もちろんわたしを含む)の期待と憧れと好きと依存と救いと声や言葉にならない感情やら涙やらが一方的にステージ中央の彼を求めていて、ギターを弾く両手と空気を震わせる声帯とリズムを刻むカラダと頭で引き受けてもらって、引き受けてもらっちゃってありがとう、ごめんなさい、ほんと助かる。そういうありがたさとばつの悪さ。
こんなものを引き受けて(あるいは意図的に無視して)生きていくのはさぞ大変(な面もある)だろうな。とんでもなくお節介というか、見当違いの気遣いではあるのだけども。とくに小沢健二という存在は好き以上の怨念を向けられがちだよなぁと、怨念を向けているわたし自身がそう思う。
初めからわかってたじゃない。そういう「既に当たり前だったはずの自明」について、目視で確認し腹落ちするというのは、思っている以上のインパクトがある。これが「体験」の本来的な価値でもある。
まあ、そのくらい楽しかった。
喜びを他の誰かとわかり合う、それだけがこの世の中を熱くする。
きっと魔法のトンネルの先、君と僕の言葉を愛す人がいる。本当の心は本当の心へと届く。
ライブやライブの趣向がそういう歌詞を体現していて、ああ、信頼できる。
ところで、このほどポータブルカセットプレーヤーを買った。所謂ウォークマンで、SONYの製品ではなくカシオなので、ウォークマンではないし、なんならスピーカーがついている!(ウォークマンブランドにはスピーカー付きはなかったんじゃないか?)
その理由に関しては、不便を味わうためのキャンプで、音楽も少し不便にしたいという欲求があったからになる。この辺は理解が難しいし評価が分かれるところなので、フワッとしてくれればいい。テープという物理媒体が好きだし、ポータブルカセットプレーヤーも好きだし、カシオも好きだ。
ここでも既に当たり前だったはずの自明のことに気がつく。
カセットプレーヤーの再生ボタンを押した後、音楽が始まるまでに数秒のブランクがある。
なんということだ、数秒のブランクがある。
A面なり、B面なり、巻き戻しが完全に終わっているカセットをプレーヤーにセットし、再生ボタンを押す。すると、音楽が鳴るまでに数秒のブランクがある。実際にはブランクではなくスピーカーからは微かにホワイトノイズが流れている。
この数秒間。
ライブが始まる前、客席照明が暗くなり演者の出音を待つ、あの数秒感、もしくは数十秒。
この期待と不安とトキメキ。
こういう体験をぜんぶひっくるめての「音楽」なんだったよな。そういえば。
文:シンタロヲフレッシュ
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