傷つきやすいわたしたち
なんでもかんでも可視化するSNSが同世代の成功や若手の活躍をリアルタイムで通知してくる。
自分の人生とは関係のない有名人の一言で胸が妙にザワつく。
自分が作る創作物の評価もリアルタイムだ。(評価がなく無視されていることもまた同様にリアルタイムである)
時代の空気感、有りや無しやの目に見えない世の中的な雰囲気、Twitterの画面を数度スワイプするだけで、欲しくもないのに手に入る情報の雪崩。
いや、実はそのタイムラインを作ったのは紛れもなく自分であり、タイムラインは自分に都合の良い快適な場所、幸せなマイホーム、この世にたった1つのサンクチュアリだったはずなのに、このしんどさはなんだろうか?
実態もなく目にも見えない、けれど強大な影響力を持つ「世間様」の下で、「空気を読むこと」が必須の能力で、「空気が読めること」が大人の最低条件のように語られた時代があって。なんならもしかしたら令和のこの時代でもある場所、ある空間ではそうなのかもしれないけども、空気を読んで勝手に傷ついて得することなど何もない。
そもそも空気なんて読めないし、読んではいけない。
時代の空気、会社の空気、SNSの空気、そんなものにいちいち傷ついていいことなんてない。
下げていい自己肯定感はない。
ところで、「ウザい」という言葉があって、ざっくりと定義するならば、空気が読めていない状況を指し、ディスりであり、馬鹿にするニュアンスの言葉である。おそらく今までは。
鈍感でコチラの意図をまったく忖度しない態度や状況。
ウザいが示す状況を、空気を読まず、空気をキャンセルし、自分に都合の悪いことを知覚できず鈍感であることと解釈するならば、ウザいヤツ本人、どう考えても生きやすい。
ウザくていい。幸せになりたい人は自分の足を引っ張り自分を傷つける状況に対してウザくあって良い。
評価や忠告に対して、鈍感であって良い。
意図的に鈍感にならなければやってられないよな実際。
鈍感になれること、鈍感であること、心の一部を麻痺させること。
シビれて動けない状況ではなく、酒に酔って酩酊しているような、フワフワと、フラフラと、しかし大事なコアの部分にはダメージが及ばないように大切に守っているイメージで。
鈍感になれることもまた才能である。
しかも、かなり重要な。
文:シンタロヲフレッシュ