冷蔵庫の冒険005|世界の真実とニヒリストの終焉
君はまだ気高く飢えているか?
ご多分に漏れず、こうして駄文をワールドワイドウェブにちまちまと刻みつけている僕は、それはそれとして、それなりにちゃんと中二病を煩っていると自覚しているわけで。
斜に構えるという大それたポーズが、なかなか板についてきたなぁと、ニヤニヤしていたんだけれども。
世界はいとも簡単にその姿を変える。
「世界」なんつってかっこつけて言うのは簡単だけれども、まあ、ぶっちゃけ、自分を取り巻くせいぜい数百キロくらいがまあ、僕の世界で、家の中、家族の所在地、そして仕事場、数えれば僕の世界なんてモノは片手でおつりが来る程度なわけだ。
結婚して一年目かそこら、自転車に乗って出勤する際、自分の不注意で車にはねられた。
はっきり言う、健やかなるときも病めるときもその愛を誓うと高らかに宣言した僕ではあったが、内心「生まれるときも死ぬときもどうせ人間は一人だ」と、どこかの誰かが言った大それた決めぜりふを心に引用していた僕だ。
自分が本なら、紀伊国屋に陳列されるよりもビレバンに置いてくれと願う程度にサブカル全開な僕だ。
はねられて、けがをして、まあ、けがはそれほどではなかった僕に妻は怒って泣いて心配して悲しんだ。
思えばあのとき、長年かけて築きあげたお洒落ニヒリストな例の僕は、ひどくショックを受けたモノだ。
「ああ、そうか、僕はもう勝手に死ぬわけにはいかないのか」と。
中学生の時はなんだか自分が「二十歳には死んでいる」と痛いとしか言いようのない選民思想だった僕。
Dont trast over thirty と唱うパンクスに対して、そうよね、とうなずきながら自分が30歳を超えてしまった事実。
そんな中、子どもが生まれた。
「十月十日」「お母さんがおなかを痛めて」そういうキーフレーズは頭にインプットされていたが、レトリックとか、言葉上の意味とかはなんと空虚なことか。
シンプルに、いまここにこうしてこの世界で呼吸をしているすべての人は、こうやって生まれてきたのか。
なにより自分はこうして生まれてきたのか。
知っていることとわかることには、圧倒的な距離がある。
モニターやスクリーン越しの世界と、肉眼の世界は、絶望的に相似ではない。
世界は変わる。世界が変わるのに24時間もいらない。
血に染まり、まだへその緒がついている青紫の我が子を抱いて、妻はこういった
「かわいいなぁ」
これだけが真実だ。
「生まれるときも死ぬときも人間一人」だと?
笑える。
この辺で偽物のニヒリストは退散することにする。
彼が登るステージなど、最初からなかったのだ。
旅と冒険は根本的に違うし、そして冷蔵庫の冒険は続く。
冷蔵庫の冒険はニヒリストが消えるまでのドキュメンタリーな時間の浪費です。
文:シンタロヲフレッシュ
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