何かとてつもなく価値のあるものを作っている気がする
暴力的な日焼けというのはすなわち重めの火傷ってことなのだけども。
上棟式(じょうとうしき)という新築の時にするオヤクソク的なやつをやった。あくまでも形式的なことなのだけども、棟梁さん始め大工さんと一緒にご飯を食べたり、ひがな1日ボーッと家の屋根部分が出来るまでを眺めていた方に意味があった気がする。
もちろん事故無く無事に家が出来上がることを多少は何かにお願いしつつお弁当をmgmg。
自分の家を建てるとかでもないとこうして骨組みがガンガンに組まれる様をボーッと1日眺めることもないよなぁ。と何をするでもなく9時間くらい(休憩しながら)外にいた。基礎の状態から屋根部分までたいてい1日くらいで出来るそうで。確かに屋根の形まではその日のうちに組めていた。
別に監視しているつもりもないし、僕が外にいようがいまいが、建物は組まれていくんだろうけども、なんとはなくその場にいて眺めていた。
不思議ととてつもなく貴重な何か、価値のある何かを作っているのだこれはという気がしてくる。
金額的な話をすれば何千万という見たことないお金が通帳のなかに入ってきて消えていったんだからそりゃあ高い買い物なんだろうけども。そんなこと以上にこのクッソ暑い中“大の大人”が何人も必死になって、まさに自分の家族のために作ってくれているコレが価値のないものなわけないよなという気になる。
実際、設計士が作ってくれた図面なんかはもうそれ自体が芸術品か何かのように綿密な何かに見える。
オーダーメードのスーツすら作ったことなく大量生産な規格品を日常的に身に纏い使用してきたが、そういうのとはまあ真逆な世界に1個しかない注文住宅だ。
まだ出来る前から振り返るのもアレだけども、家を創るのはなかなか楽しい作業だった。
直接的には間取りを考えたり家具の配置を考えているんだけども、実は家を創っているのではなく、どうやって暮らしたいかを考えて“暮らし方をデザインしている作業”だったからだ。
なんならあと3回くらいはしたいけども、家づくりをスタートしてここまでくるのに2年半くらいかかってるわけで、じっくり時間をかけるというのは贅沢なことだなと自分のことながら思う。
なんにせよ、子供たちの思い出が作られている場所が組み上がるのはなかなか感慨深い。自分の親たちもそうだったのだろうか。
お風呂が沁みるぜ。
文:シンタロヲフレッシュ