今、日本で家族を書かせたら一番面白いのは橋田壽賀子ではない。
宮藤官九郎で間違いない。
木更津キャッツアイで全俺が泣いて、ドラマを作る者(演劇の)として面白くて感動して悔しくて歯噛みしまくったのはいつだっけなぁ。とにかく、「11人もいる」の最終回を見て泣いた。
思春期にはうざくて仕方がない家族だけど、ある一定の年齢に達した時、また、ある機会に接した時、なんてありがたいんだ!とかその意味とか、よさ、みたいなものに気がつくわけだけれども、改めてその面白さに気がついた。
よく考えたら「血」とやらはつながっているだろうけど、他人だもんな、歳の離れた、他人と暮らしているわけだもんな、さらにランダムにマッチングされて。選べない。若い頃とくに思ってた、家族だからってしるかと、親だからってどうした、自分のことをどれほどわかっているのかと、お前たちが知ってるのはせいぜい子供の頃の好きな食べ物と生まれた日くらいのものだろうと。
物心とやらがついた時にはもう当たり前にそこにいるわけだもんな。
気に入ろうが、ムカつこうが、好きになろうが、嫌おうが、馬が会おうが、そりがあわなかろうが、いれば安心するし、何かあれば心配になる。
そーれーがー、
うん、面白くないわけがない理由でした。
家族が面白い、コンテンツとして面白い。こんなご時世とかどうでもよくて面白い。兄弟とか、親父とか、絶対面白い。
あんな家族があるか!と思ったのならそれは完全に甘い。誤算中の誤算である。構図でいえば、コンテンツの内側からコンテンツを語らず、その外側に(一見アブノーマルとして、あくまでも一見として)存在し、外から内側を撃ち抜くのだ、普通じゃないから普通が描けるのだ。のだぁ!
このハズシが恐ろしく巧妙に行われているのが宮藤官九郎の家族描写だ。片親だったり、見えなかったり、師匠だったり、まあとにかく親と子、親父と息子、この外しがかえって普通の家庭にいる自分にフィードバックをうながす。ああ、こういう風に感じていたのかと、気づきをうながすヤリクチがいちいち洒落てる。
ああ、全部どうでもいい。
ドラマの中で出てくる歌が、こう絡むのか、憎らしい!
すべての伏線をかっさらっていく。着地点は問題じゃない、メグミは完全に死んでるし、家族は生きていく。それははじめからわかっていた。見えようがいなくなろうがどうでもいい。
家族の合唱にメグミの歌が乗った時、ああ、あああ、泣いてしまった。
家族っていうのは生ぬるいだけじゃない、うん、しんどい時もある。いや、最近結婚したから言っているのではない。最近家族になる、家族を作ることを覚悟しただけで、物心着く前とやらに、僕は多分覚悟したのだろう、この人たちと家族になるのだと。うん。きっとそうなんだろう。
ただ、それだけのこと。SAKEROCKいいよね。
はい、そーれーがー
文:シンタロヲフレッシュ
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