「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に関しては、全く期待してないくらいでちょうどいいわぁ
熱心か?といわれたら、違うだろうね。
やれやれ。
やれやれといえば完全に承太郎を想像してしまうあたり、まったくハルキストではない僕です。どうも。
とはいえ、エッセイ以外、現存する村上春樹の小説に関しては全部読んでる。もちろん1Q84も読んでる。そしてまあ、村上春樹も好きな作家の一人だと言えますね。まあ、文庫になったら全部買ってるし。
とりわけ一番好きな作品は?とか言い出したら話しがややこしくなるけど。
当たり障りなく「風の歌を聴け」なわけです。「ノルウェーの森」とかもってのほか。
村上春樹の何がいいって、ほとんど内容がない、あの感じ。お洒落という飲み物のほんの上澄みだけすする感じ。まさに、北京ダックのごとく。
あぁ!面白かったとか、どんでん返しがすごい!とかまるでなし。まあ、なしでもないけど、ほぼなし。
聞いたこともないクラシックな音楽家とご飯の名前、あと信じられないくらい美味そうにビールを飲んでみたり、ワイン飲んでみたり。なんというか、永遠の80年代。
なんでもないサンドイッチがどうしてああも、ごちそうのように感じるのか!あんまり深く考えたこともないけど、村上春樹はなんというか、凄腕の小説家というよりも、凄腕のカメラマンに近いんだと、はっと思いついた。
いいカメラマンは、対象物を切り取らない。
いいカメラマンは、対象物と視点との間の空気を上手く写す。よって伝わるのは対象の詳細ではなく、対象が存在する場所やシーンに存在する空気なんだ。
おそらく村上春樹の小説を読んで、レトリックがヤバい!とかメッセージがすごすとか、ほんとどうでもよくて、物語が展開または、不展開されてるその空気をおいしく頂いているんだと思う。
高原で空気うめー!とかいうあの感覚で。
高原で乳搾りとか、花を見たり、お弁当を食べることよりも、なーんか空気が上手かったなぁという、超絶漠然とした記憶が残るように、ああ、なーんか洒落乙な空気をお腹いっぱい吸ったなぁという感じが、読了後に訪れるわけで。
なにがいいたいかというと、海辺のカフカも、1Q84も、ハードカバーを買って読んだにもかかわらず
内容まるで憶えてないや。
うん、僕は熱心な読者ではないんだろう。まるで。
という感じで「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も、買うだろうし、読むだけろうし、なんなら感想とかも書くかも知れないけど、
そのうち忘れるだろうね。
というくらいのごくごく淡い期待しか今のところ抱いてません。発売おめでとうございます。
文:シンタロヲフレッシュ
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